道に迷った。 そう気がついた時、聖子はすでにかなり山の奥深くまで来ていたようだ。 本来ならばもうとっくに下山できていてもおかしくないくらい歩いたのに、一向に麓の温泉街が見えてこなかった。 雨が小降りになってきたせいで立ち込めていた霧が晴れ、木々の切れ間から辺りの様子をうかがうことができるようになって、ようやく彼女は自分が登山道から外れた森の中を一人で歩いていることを認識した。 困ったな。あ、そう言えば携帯… リュックのポケットを探るが、いつものような固い手ごたえがない。 慌ててあちこち弄ってみるが、どこにも入り込んではいなかった。 ここに辿り着く前に何度か取り出して電波の様子を確認した時には、確かにここに入れたはずなのに。 思い当たるとしたら、少し前に沢の淵で足を滑らせて転倒した際に、荷物を落としてしまった時だ。リュックの口が開き、中にあった小物が散乱してしまい、拾い集めるのに苦労した。そういえば、あの時はまだ雨がかなり強く降り続いていて視界が悪かったせいで、足元に茂っていたシダの葉の下や、落ち葉の中まで確かめることをしなかった。 携帯電話があれば、仮に電波状況が悪くて通信できなかったとしても、GPS機能で自分の居場所を確認してもらうことができる。もしやの期待を込めて同僚の荷物も開けて中を弄ってみたが、やはりそこにも携帯は入っていなかった。 どうしよう。あれがあったらすぐに連絡がついたかもしれないのに。 疲労困憊していたとはいえ、自分の注意力が疎かになっていたのが悔やまれる。 聖子はその場にあった大きな石の上に座り込むと、がっくりと肩を落とした。 腕時計を見ると、時刻は夕方の4時少し前。 どうにかしないと、そろそろ夕暮れも迫ってくる時刻だ。 日が落ちれば気温が下がり始める。今は一晩くらい野宿しても凍死するような季節ではないが、山の中には野生の動物もいるだろうから、あまり気持ちの良いものではない。 「仕方がない、もうちょっと開けた場所を探して、そこで救助を待とう」 山中でむやみに動き回るのは危険だということは知っているが、現在の位置を伝える術がない以上、明るいうちにできるだけ見つかりやすそうな場所まで出ておいた方がよいだろうと彼女は踏んだ。それに、最悪一晩山中で過ごすことになれば、今のうちにどこか雨風を凌げる所を探しておかなくてはならない。 疲れで重くなった身体に鞭打って何とか立ち上がると、聖子は獣道のように細く踏み分けられた藪の中をゆっくりと歩き始めた。 そうして悪路に苦戦しながら小一時間ばかり歩いた頃、突然目の前の林が途切れ、何もないぽっかりと開けた場所に出てきた。 切り立った岩の壁を背に、数十メートル四方に渡って平らに整地したようにも見えるその場所はまだ山の中腹と思われたが、不思議と周囲のように木々が茂っていない。その上、きれいに下草が刈り込まれた地面からは、所々に平たい敷石のような、大きな岩がのぞいていた。 「昔の建物か何かの址かしら」 昨日行った資料館の案内板には、確かこの地域は昔から都に上る街道の要所だったと書いてあった。もしかしたら、その関所か、もしくは攻めてくる敵を迎え撃つための砦があったのかもしれない。 「とりあえずこのあたりで待つことにしよう。ここなら上からでも見つかりやすそうだし」 もしヘリコプターか何かが通ったら気付いてもらえるように、焚き火をおこそうと思いついた聖子だったが、ライターは都合よく同僚の荷物の中から見つけ出したものの、肝心の落ち葉や枯れ枝が雨で湿っていてとても火がつきそうにない。 「ダメだなこれは。地面も濡れて湿気ているし」 疲れた身体を休めるために腰を下ろそうにも、どこもかしこも雨でびしょ濡れになっていて、座る場所さえなかった。 とにかくどこか地面が乾いている場所を探そうと空き地を横切っていると、その端にある一本の大きな木に目が留まった。 あの木の下なら、このあたりよりは少しは濡れていないかもしれない。最悪、また雨が降り出しても多少なら、しのげるかも。 そう考えた聖子は、草に足を取られながら、何かに引き寄せられるかのように木の方に向かって歩いていった。 「これは…」 木に近づくにつれ、その背後に迫る大きな岩の形状が否応なく目に入った。 剥き出しになった巨岩の中ほどには、明らかに人の手が加えられた形跡のある岩室があるのが見えたが、そこに行くまでの足場は見当たらず、容易に側に近づけない様子だ。 「でも、これって御社か何かよね」 今でも入口の奥まったところにしめ縄が張られているのを、下からでものぞき見ることができた。 「あそこまで、どうやって…」 見上げていた聖子の脳裏に、岩室にかけられた縄梯子が浮かんでくる。次に、そこを這う様にして上る人の姿が浮かんだ。その周囲には悲鳴と怒号が飛び交い、人影に向かって雨あられと矢が放たれる。 女の人? 長い髪を振り乱しながらやっと上までよじ登ったと思った時、それが千切れ落ちる瞬間が見えた。 「ああ、落ちる…」 視界が回り、手が岩肌から離れ、そして最後に空を見上げた直後、身体が宙を舞った。まるで自分がそこをよじ登っていたかのような錯覚に捕われた彼女は、その瞬間に思わず目を閉じた。 再び目を開けた時、あたりは何事もなかったかのように静まり返っていた。普通の人間なら混乱しそうなものだが、聖子にはそれが過去の出来事の再現であったことは分かっている。だが、数え切れないほどの軍勢が女一人を目指して襲い掛かるという状況の異様さに、徒ならぬものを感じとった。 「今のは一体何?」 聖子は目の前の、まるで岩室に入る者の行く手に立ちふさがるかのように聳え立つ老木に向かい合い、話しかける。 「お願い、教えて。ここはどこなの?一体ここで何があったの?」 あれは、何だ? 彼はまるで木と一体になっているかのような姿で身動き一つしない人の姿を、注意深く遠くから見ていた。 私有地となっているこの山に人が入ってくることは滅多にない。ましてや、この場所まで分け入り、室に辿り着いた者は、今まで一人もいなかった。 彼とて、いつも使っている専用の入口から続く道を上ってこなくては、ここまでは来ることは難しい。この山自体が昔から聖域とされ、一般の村人たちの立ち入りができなかったため、他の山道を経由しての登山道の整備がまったく行われなかったせいだ。 あの女性は、一体どこから入り込んだのだろうか。 自分が上ってくる時には行き会わなかったということは、正規の登山道を使ったとは考え辛い。おまけにその出入口が瀧澤家の屋敷の中にあるのだから、普通なら入口の場所を知ることさえできないだろう。 では、他に考えられるとしたら。 「風の道か…」 その昔、風守の民たちが使っていたと言われる抜け道。獣道のように細く険しいその道は、時として民たちの秘密の通路となり、またある時は敵を惑わせ陥れる罠が多数仕掛けてあったとも聞く。 厄介なことに、風守の民たちは、自らが通った跡を残すことも消し去ることもできた。その上、トラップとして幾筋もつけられた道の、本道を見分けることができるのは彼らだけ。 それらを自在に操り、風守の民は長い間、自分たちの聖域を賊から守っていたのだという。 瀧澤の末裔である彼には、その道を見つけることは出来ない。 そして特別な能力を持っていた風守の民の末裔たちもまた、代を重ねてこの地で瀧澤の縁の者たちと同化していくうちに、その力を徐々に失った。 幹から手を離した女性は、半分朽ちかけたその老木を見上げている。 彼女が触れていた巨老木も、瀧澤の人間には触れることが許されないとされる神木だ。 焼け残った櫛から芽吹いたとされる、霊木。 この地にはまったく樹木が育たないが、あの木だけは大きく根を張り今も生き続けているという不思議な木だ。 「今のは何だっかのかしら?」 気がつけば、彼は女性の呟きが聞き取れるほど近くまで側に来ていた。 このまま隠れていても仕方がない。 軽装だが登山中のようだし、宿泊するような装備も持っていないところを見ると、どうやらこの聖域を目指して上ってきた侵入者というわけでもなさそうだ。 それにこの女性をこのまま私有地に留まらせることはできないし、自分自身もそろそろ下りないといけない時刻になっている。 彼はできるだけ女性を怯えさせないように、抑えた調子で声をかけた。 「こんな所で何をしているんだ?」 女性が驚いて振り返る。 その時、突然時ならぬ一陣の風が彼と女性の間で渦を巻き、そして吹きぬけた。 HOME |